「ぼくは愛を証明しようと思う。」という本を読みましたので、感想を書いていきたいと思います。拙文ですがお付き合い頂けたら幸いです。
まず本書は小説という体を取っていますが、中身は女性と付き合うまでの恋愛テクニック本です。
なので今付き合っている女性がいない男性陣には、新たに女性と出会う上で有効な手法が得られる良書であるかもしれません。
しかし私には取ってつけたような違和感のある文体、そして最後は読者がある程度納得いくようなありきたりな結末にがっかりした一冊でした。
恋愛工学の祖、永沢という男は幸せだったのだろうか
主人公の「ぼく」は、恋愛における成功法則を追求し、実践することで愛を証明しようと試みます。その物語の中心にあるのは、心理学や生物学、金融工学など科学的なアプローチからモテ理論を構築する「恋愛工学」という概念です。
この恋愛工学を作り上げたのが永沢という男で、永沢は主人公にこの恋愛工学を教えてくれます。
永沢はその恋愛工学を駆使してとにかく東京都内でモテまくるわけですが、読んでいて不思議と羨ましいとは思えなかったです。
理由としては永沢という男がその生き方に幸福を覚えているという描写がほとんどない点、そして彼が非モテコミットとこき下ろしている私たちの考え方に、夫婦間で大切にすべきものが詰まっているように思えてならないからです。
これは作者の意図なのかもしれませんが、本書はあくまで恋愛という駆け引き(ゲーム論)を勝つための攻略本。それ以上でもそれ以下でも評価すべきではないのかもしれません。
またなぜ永沢という男が主人公に自分の伝家の宝刀である恋愛工学論をなんの対価も求めることもなく教えたのかも物語上は謎でした。
「礼なんていらない。俺は、お前がどこまでやれるか、見てみたくなったんだ。そして、これは恋愛工学がどれほどの力を秘めているかを証明するための実証実験でもあった」
とエピローグで主人公に話しているのですが、主人公に大事な実証実験を託すだけの魅力があったのかはどうも文面からは伝わってきません。
どうも登場人物の解像度がいささか低いように感じられてしまいます。
「アルジャーノンに花束を」のオマージュをどう評価するか
本書は「アルジャーノンに花束を」をストーリーテリングとして用い、実際の物語も似たようなかたちで進行していきます。
チャーリー(アルジャーノンに花束を)
IQ68→脳外科手術(人体実験)→IQ185→元に戻る
本書主人公
非モテ→恋愛工学伝授→かなりモテ→すべて失う
恋愛工学を学ぶ前、「アルジャーノンに花束を」の話で少し盛り上がったとても感じの良いカフェの女性に連絡先を聞く勇気がなく帰宅した主人公。
主人公が全てを失ったあと、その人と全く違う場所で最後結ばれるという展開は小説っぽくドラマチックでよかったと思います。
「アルジャーノンに花束を」では、外科手術で主人公は幸せになりませんでした。むしろ知らなかった方が幸せだったかもしれません。
仕事も失い、自信を失くしてしまった僕は、また非モテに戻った。
そして、他愛もないことを話す同僚さえもいなくなってしまったのだ。
まるでチャーリイみたいだ。
本書でも主人公は恋愛工学を知ったことが本人の幸せに直結しませんでした。作者は「アルジャーノンに花束を」を引用することにより、恋愛工学は本人の幸せに直結するかは分からない。むしろ不幸にする可能性もある。しかし恋愛というものには、こういった科学的アプローチや確率論は厳然として存在するよと伝えたかったのかもしれません。
べつに非モテでいいかなと思う、でも勇気は大事
非モテが持っているロマンチズムを否定している本書、私は自分の恋愛観を否定されているようで何とも言えない感情をもちながら読み進めました。テクニック的な部分では勉強になるものも多少ありました。
おそらく婚活パーティや婚活サイトに登録している方は初対面の印象が大事なので、本書で参考になる部分は多分にあるかと思います。
しかしテクニックでうわべの信頼を勝ち取ることを至上とするように見えてしまう中盤までのストーリーはどうも違和感がぬぐえず。でも主人公が完全に非モテ状態に戻ったときにテクニックを封印し、でも勇気をもって切り出した女性と上手くいきはじめるエピローグには共感を得ました。
結局はいくつになった恋愛でも「勇気を出す」
これが一番大事なことなのでしょう。
恋をしても賢くいるなんて、不可能だ
イドラの概念を提唱した法学者フランシスもこう言ったらしいですが、ラブイズブラインドで良いのだと私は思います。
以上本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。